渡辺崋山は三河国田原藩士の子で、八歳から藩の世子御伽役を勤め、四十歳で年寄役となり田原藩のために尽力した人物です。また、学問に優れ、儒学などに精通していました。
本図については、豊橋市出身の漢学者・石川鴻斎が作画経過に関する伝承を残しています。
それによると、田原藩は前芝村(現:豊橋市前芝町)の御用達商人の加藤家に対して、四千五百両の借金がありました。返済に窮した藩は、藩に残っていた狩野安信の「破墨山水図」を贈り、さらに永世五人扶助の給与を与えて借金の棒引きを交渉しました。
しかし、加藤家は猛虎の絵を渡辺崋山に描いてほしいと依頼しました。崋山はその命により、数十枚の下絵を描き、三年目の天保九年(一八三八)五月六日に本図を完成させたということです。
画面には、中国・北宋の詩文書画に秀でた文人・黄山谷の詩が書かれています。「肉酔の猛虎が目覚めた時、強風起こり古松草葉がなびく」という詩意を、崋山は見事に描いています。虎は、当時はまだ生きた姿を見ることができない動物でしたが、繊細な毛の描写や鋭い眼光をこちらに向ける表情から、崋山の高い技量を感じさせます。