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美術館沿革

平野美術館について

平野美術館は、美術をこよなく愛し自らも絵筆をとった平野素芸(そうん)と平野憲(けん)の父子二代にわたり
収集したコレクションをもとに、1989年(平成元年)二人が生まれ育った静岡県浜松市に開館しました。
収蔵作品は鎌倉時代の仏画から近代までの日本画を核としており、さらに洋画や現代アートにいたるまで多岐に渡ります。
展覧会は日本画の収蔵作品展をはじめ、地元にゆかりのある作家の企画展などを開催し
《街に開かれた美術館》として地域に根ざした活動を続けてまいりました。
今後も多方面のコミュニケーション機能を追求する美術館を目指して、
多彩なアートシーンを提案し、幅広い情報を発信していきます。

開館までの道のり 語り 平野美術館初代館長 平野 憲

◆開館前の新聞記事抜粋◆
 浜松市元浜町の二俣街道沿いにお目見えする。丸八製材、丸八不動産、平野興産など四企業の経営者・平野憲さんが建設中の美術館で、名称は「平野美術館」。父子三代で集めた美術品約八百点を収蔵し、順次一般公開する。
素芸七十四歳自画像 昭和三十三年平野さんの父の故醇一氏(雅号・自適斉素芸)は、美術品収集の傍ら自身も文人画など描いた人で、平野さんも大の美術ファン。長男の弘さんも、美術品のコレクションが好きで平野家三代が集めた日本画、洋画、書、陶芸品、彫刻など美術品はざっと八百余点に達している。美術館には、これら父子三代、百年間の集大成を一堂に集めた美術品を春夏秋冬の四回に分け、展示する。美術館は、平野さんが約八億円を投じて造っている賃貸マンション(約六十戸)と企業グループ事務所の一角に建設中で、鉄筋コンクリート二階建て。常設展示場、特別展示場合わせて延べ四百三十平方メートル。同美術館の運営は財団法人組織で行うことにし、現在、その手続き準備を進めている。(1987.12.3 中日新聞)
 丸八製材所、丸八不動産・前社長の平野憲さんと父親の故・醇一さん親子二代にわたる美術館建設の夢が実現し、来月十三日、財団法人平野美術館がオープンする。
初代館長 平野憲美術館の建設は、文人画家だった故・醇一さんの長年の夢で、その遺志を継いだ憲さんが三年前から具体的な構想を練り、実現させた。ビルの二階に設けた美術館は約四百二十平方メートルのスペース。故・醇一さんの代から約百年にわたり平野家が収集した美術品六百数十点が収められた。平野さんは「皆さんに気軽にみていただきたい。社会のお役にたてば」と話している。(1989.4.27 静岡新聞)

 丸八不動産会長平野憲さんと父親の醇一さん、それに長男の丸八製材所社長弘さん親子三代の夢だった平野美術館が五月十四日、同市元浜町でオープンする。約百年間にわたって収集してきた美術品の数々を展示しようと建設したもので、運営組織として財団法人平野美術館も設立した。平野家所蔵の美術品は約六百二十点。紙店を経営し文人画家でもあった醇一さんに感化された平野さんが父親のコレクションに、自らの収蔵品を加えた。醇一さんの遺志は平野さんを通じ、弘さんにも引き継がれた。「せっかくの美術品を蔵の中で死蔵させるのは惜しい」。平野さんが醇一さんの夢でもあった美術館建設の具体的計画に入ったのは約三年前のことで丸八不動産新社屋建設に合わせて完成させた。美術品は市民の共有財産にすべきとの考えを持つ平野さんにとって次の課題は財団法人化だった。基金集め、所蔵品のチェックなどさまざまな困難を乗り越えて四月末、承認にこぎつけ、美術品の所有権は平野家から財団法人へ移った。今後、館蔵品は次々に公開されていく。

(1989.5.7 中日新聞)

浜松市内の実業家、丸八不動産会長、平野憲さん。亡き父の意志を継ぎ、長男とともに集めてきた美術品八百点余を公開するため、五年前から温めてきた構想が実現した。憲さんの父、醇一さんは紙店を経営するかたわら書画をたしなみ、一線を退いたあと美術品の収集を始めた。一九六九年、八十四歳で病死。「いつか美術館をつくりたい」。そんな醇一さんの意志を胸に、憲さんは長男で丸八製材所社長弘さんと、仕事の合間を縫って作品を集め続けた。(1989.5.12 朝日新聞)

 財団法人の美術館は県西部では始めて。幅広く不動産業を営む平野憲さんが、父の故・醇一さん、製材所社長で長男の弘さんの三代、約百年かけて集めた美術作品を公開するものです。平野さんは「半数近くを集めた父が公開を望んでおり、その意志を果たしたかった。多くの人に見てもらいたい」と話している。

(1989.5.12 読売新聞)


◆開館後の記事◆
 先々代は金原鉄平という。同家は天竜川治水に大活躍した金原明善翁の本家筋に当たり、鉄平さんは小学校長十余年、中ノ町村長十四年努めたという文人であり、政治家だった。先代(父)は醇一(じゅんいち)といい、金原家二男に生まれ、浜松市田町の平野紙店へ養子入り。醇一さんは紙店経営のかたわら、妻の父の感化を受けて山林経営に興味を持つ。そして北遠、信州などに山林を買い、本格的に林業へ乗り出す。一方、先々代の影響を受けて書画に知識も深く、自ら素芸(そうん)と号して南画を描く。また、渡辺崋山を中心に文人画を買い集めていた。さて、憲さんは大正六年三月生まれ。浜松一中(現浜松北高)卒後、兄とともに紙店を手伝っていたが、父が同市布橋一丁目へ家を建てたので両親とそちらへ移る。昭和十二年の徴兵検査で第二乙種合格。補充兵として豊橋の歩兵連隊へ入隊、中国へ送られる。作文や字が上手だったのが幸いして中隊本部功績班へ回され、ドンパチの前線へ出ること少なく帰郷。再召集された。
大正生れ俺たちの詩 昭和六十年戦後、一時、銀行へ勤めたが退職。父の林業に関心を持ち「平野家山林部」で、父と中心になって働く。地下たびに作業衣で下草刈りや間伐、伐採、運搬の監督をし、元浜町に丸八製材所を建てた。(株)丸八製材所の社長は十年前、長男弘さんにゆずり今は会長職。
美術品収集は三十歳ごろから父と始め、約七百五十点に達した。「布橋に死蔵しておくのは心もとない、皆さんに見て頂こう」と美術館建設を決意。今年五月十四日オープンした。(1989.11.9 中日新聞)
 文人画家として知られる実父素芸(そうん)の作品展を開催。素芸は本名醇一。天竜川治水事業に尽力した金原明善翁の本家筋に生まれ、平野家の五代目に迎えられた。先々代の影響を受けて書画に知識を深め、大雅の流れをくむ大正、昭和の南画界の第一人者近藤朴斉に師事した。
「紙問屋の商売を大きくしながら風雅の道に生きた人。私も余技で自由詩を作ったり絵を描きますが、今も師と仰ぐ存在です」と語る。古美術や日本画の収集は父子二代にわたり、その数約八百点。散逸を防ぐため私財を投じて建てた美術館は五月で三年目に入る。「先代の遺志を受け継いで、地元作家の掘り出しと息の長い運営を続けていきたいですね」と語る。(1991.4.12 中日新聞)
 浜松市の中心部、二俣街道沿いの商店が立ち並ぶ一角にある。館長が父醇一さんの代からの美術品コレクションを基に平成元年五月、同地に開館した。醇一さんは浜松市田町の紙店経営のかたわら書画に造けいがあり、素芸(そうん)と号して南画を描いていた。父の山林経営を継いだ憲さんは同市元浜町に丸八製材所を興し現在は長男弘さんにゆずり引退したが、自身も文人画をたしなむ。七百五十点余りある収蔵品のほとんどは親子の個人コレクション。(1994.6.12 中日新聞)

平野美術館の歩み

1989(平成元)年
5月14日開館
初代理事長・館長として平野憲就任
1995(平成7)年
11月1日、第二代理事長・館長として、平野まさ子就任
2012(平成24)年
12月3日、公益財団法人へ移行 第三代理事長・館長として、平野弘就任